綾の色づく日々

しまえび

戸惑いと色づく日々

プロローグ:目覚めの朝

目が覚めるたびに、奇妙な違和感が胸に残る。

けれどそれは、目を開いた瞬間に溶けてしまうほどの儚いものだった。


高校一年の夏休み。

俺――柊綾人ひいらぎあやとは、進学校に通うため、春から一人暮らしをしている。

都会のアパート。親の援助もあり、生活に困ることはない。


もともと家事は得意だし、誰にも干渉されず、自分のペースで暮らせる環境は心地よかった。

特別仲の良い友人がいるわけでもない。学校では当たり障りなく会話し、必要最低限の関係だけ築いている。

そんな、自分にとって理想的な日々だった。


……はずだった。


ここ一週間、毎晩のように同じ夢を見ている。

見慣れた教室。変わらない景色。ただし、俺は“女”だった。

制服はスカートに変わり、周囲の生徒たちは俺を女子として自然に受け入れていた。

自分でもその姿に違和感を抱かず、日常のように振る舞っている。


けれど、目覚めるとその内容はぼんやりとしか思い出せない。

そしてまた、普段通りの日常が始まる。


ただ、ひとつだけ現実の中に残る違和感があった。

朝起きたとき、手が小さく見えたり、声が妙に高く感じたり。

一瞬の錯覚。夢の名残だと、そう思い込んでいた。


その日までは。



ふわりと柔らかなシーツの感触に包まれて、目が覚めた。

部屋は静かで、朝の光がカーテン越しに差し込んでいる。

いつも通りの目覚め――そう思いながら、俺はゆっくりと身体を起こした。


その瞬間、違和感が背筋を走る。


視界が低い。

床までの距離、棚の高さ、ベッドの位置関係。

どれもわずかにズレていた。


反射的に手のひらを見た。

細く、滑らかな指。爪は丸く整っており、色もほんのりピンクがかっている。

その手を、胸元に添える。柔らかな感触が、確かにそこにあった。


「……は?」


自分の声に驚く。

高く、澄んでいて、けれど確かに“俺”のものではない。


慌てて部屋を見回す。

白と淡い木目調でまとめられた、清潔感のある空間。

よく似てはいるが、これは俺の部屋じゃない。

家具の配置、カーテンの色、何もかもが微妙に違っていた。


机の上に置かれたスマートフォンを手に取る。

ロック画面は顔認証だったが、難なく解除された。

画面に表示された名前は「柊 ひいらぎあや」。


柊は俺の名字だ。だが、“綾”という名前に見覚えはない。

似ているが、俺ではない誰か。

まるで、鏡写しのもう一人の自分のようだった。


ホーム画面をスワイプし、メッセージアプリを開く。

開いたトーク履歴には、見覚えのない名前が並んでいる。


「おはよ〜」

「今日も暑いね〜」


そこには、俺ではない“誰か”が、日常のように返事をしていた。

だがその送り主の名前は――「綾」。

このスマホの持ち主。

鏡の中にいた、夢で何度も見た“あの女の子”。


俺は、確かに変わってしまった。

目の前にある現実が、そう語っていた。


洗面所に向かう。

蛇口をひねり、水をすくって顔を洗う。

そして、ふと鏡に顔を向ける。


そこに映っていたのは、俺ではなかった。

どこか眠たげな目元、整った眉、艶のある腰辺りまでの髪。

目元の印象だけが、かすかに自分を思わせる。


「……どういうことだ」


吐き捨てた声が、またしても少女の声で返ってくる。

背筋がぞくりと震える。


それでも、俺の指は自然に動いていた。

化粧水のボトルを手に取り、適量を掌に出して肌に馴染ませる。

髪を結ぶゴムを手に取り、手早く結い上げる。

歯ブラシを咥えながら、朝のニュースを横目にテレビをつける。


どれも、意識しなくても身体が勝手にやってくれる。


綾人としての俺の意識は、この身体には宿っていない。

だが、この身体――“柊綾”の生活は、確かにここに刻まれていた。


脳はまだ綾人のまま。

けれど、身体は綾としての生き方を当然のように受け入れている。

二つの“自分”が、せめぎ合っていた。


カレンダーを確認すると、今日は日曜日。

予定は空欄。

メッセージ履歴を遡っても、今日誰かと会う約束はしていない。


幸いだ。今すぐ誰かと顔を合わせることだけは避けたかった。


――これは、ただの夢じゃない。

目覚めた今、この現実を生きていくしかない。


鏡の中の“綾”が、こちらをまっすぐに見つめていた。

その顔に、ふと微かな違和感を覚える。

――どこか、誇らしげな、そんな表情。


「……やれやれ。これからどうするかな」


言葉と共に、綾の口元が微かに笑った。


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